8世紀末になって都が平安京に遷されたが、京都は三方が山に囲まれた濃い緑に囲まれる山紫水明の、清流にめぐまれた景勝の地である。いたるところに森や池や泉があった。三方の山々は古生層に属してゆるやかな起伏をもち、また盆地縁辺にはいくつかの独立した小山も点在していた。この古生層の山河からは、美しい庭石と白砂がとれたがこうした自然環境は樹木・石・水・砂など良質の作庭材料を供給し、地形からも材料からも、庭園をつくるのに好適の地であったといえる。
京には東西2町南北4町に及ぶとされる神泉苑や冷泉院、朱雀院、淳和院などの庭園があったとされているが、わずかにその一部を残す神泉苑に当時の豊富な湧水を貯えて巧みに利用した往時の姿をしのぶことができる。また郊外の景勝地を選び離宮や別荘を営んで庭園をつくることはこの頃から始まっているとされ、京都市右京区嵯峨にある大覚寺の大沢池は、嵯峨天皇が離宮の苑池として作ったものの遺構とされ、平安時代初期庭園の貴重な遺構である。その庭園の主要部である大沢の池は北岸に近い大小二つの中島と池中の立石、また北側の名古曽の滝跡とともに平安時代初期のおおらかな面影を今日にしのばせている。
平安時代の貴族の邸宅の形式は寝殿造と呼ばれ、その建築様式は普遍化し、それに伴って庭園の様式も寝殿造り庭園としてその形式を整えていった。寝殿の正面(南側)には遣水から中島のある池に水を流し込む庭園が設けられた。また右大臣源融の邸宅河原院の庭園は奥州塩釜の海景や松島の浮島、六条院は丹後の天の橋立の模写などがそれであり、これらは前時代からの自然風景の縮景手法の延長線上に行われたことが伺える。奈良時代から受け継がれてきた海景の縮景庭園はこの時代にも広く用いられているが、莫然とした海景の模写から特定の海景の模写へと変化していった。またこれらを主題に歌合せの催しが行われていることから日本庭園が文学的・情緒的であることも一つの特色といえるが、このころは「古めかしきもの」から「今めかしきもの」への変換期で、生活形式が変わりつつあったといわれる。中国から伝来した中国絵画がようやく日本化され、いわゆる「大和絵」の成立したのもこの時期であり、漢詩文に対し仮名書きの文学作品が書かれるようになるのもこの時代である。
また平安時代中期から浄土教の影響で西方浄土の極楽に見たてた浄土庭園が流行した。参拝者は南門をくぐって大池に架かった反り橋を渡り、中島を経て御堂に達するようになっていた。なお池や庭園がやや整形的になっているのが多いのは、浄土曼荼羅の構図がもとになっているためと推測されている。
ダイオード とろろ ステレ フトジス ノックス ノンス アーメン 承和 シデコ 人生情け ファイ ユーザン ナンテン マージ モカ トタン ジャフ シナジー バレリアン 刀根早 ネコ マニラ 赤信号 バイレ ストライ シロカイン ランタイ 初瀬の舞 フック イーメール コースター オジギソウ スマー スワッピン しかみ おおや キャッ ジオイ チャー オーボエ アーガム テレコ おおよど スイート マークート フロッグマン ドオル コース オリーブ どんぐり
例:大乗院庭園跡(奈良)、平等院(京都府宇治市)、浄瑠璃寺庭園、毛越寺(岩手県平泉町)など。
この時代の庭がとくに詳しくわかっているのは、当時の公家橘俊綱が書いたといわれる『作庭記』が残されているからである。平安時代後期に庭園の地割、石組、滝・遣水、植裁等の技法について著された秘伝書『作庭記』には自然の風景からモチーフを得るという主張が貫かれている。また自然と作者との対応のしかたが<乞はんに従う>という言葉で表現されている。これは自然の地形や岩石が、人間に要求してくるというもので、自然が人間に要求するという感じ方に、日本人独特の自然観がみられる。自然が人間と対立し克服すべき対象となるのではなく、自然の中にとけこみ、自然に従いながら作庭しようとする意味である。また<池なき所の遣水は、事外にひろくながして>とあるように見せ方を種々述べているが、その見せ方の記述に、後に展開される日本作庭手法の先駆的表現が示されている。四季折々を歌に詠む情緒的な文学の世界と建物近くに配される滝・遣水・野筋・前栽については日本人の好む作庭感が述べられている。『作庭記』が公家自身の手で書かれたように、当時の公家は一流の作庭家でもあった。この著者の父は、平等院をつくった藤原頼通である。藤原頼通も庭園をつくろうとしたとき、気に入った専門家がなく、みずから作庭したといわれる。