2009年06月30日

1976年3月に南京で発生した周の追悼集会

1976年3月に南京で発生した周の追悼集会と四人組批判の運動が、四人組の必死の隠蔽や妨害を越えて北京に飛び火したのが発端となった。南京から北京行きの列車の車体には人民の決起を呼びかけるスローガンが書かれ、北京市民を勇気づけた。こうして3月末に天安門広場では追悼集会が自然発生の形で起こった。参加する市民の数は日を追って増え無数の花輪・幟・追悼と四人組批判の詩文などが人民英雄記念碑に捧げられた。
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特に4月4日は清明節という中国のお盆にあたる日で、2万人近くの群衆が集まった。人々は花輪や詩を捧げるだけでなく、四人組を批判する演説や「インターナショナル」を歌うなど気勢を上げた。数日前から四人組の指示を受けた公安部による取り締まりが、花輪の撤去や街宣車による警告、説得や拘禁などの形で始まっていたが、かえって逆効果となる。ついには取締りに当たる警官や兵士までもが人々の熱気に感化されて職場を放棄する事態となった。

追い詰められた四人組は党中央を動かし、これを反革命行為ときめつけ実力行使に出る。翌5日午後9時35分ごろ、広場を包囲した警官隊が群衆を襲撃した。この事件の犠牲者や逮捕者は不明である。

事件発生後、四人組のひとり姚文元は『人民日報』に「反革命政治事件」として民衆の反乱とごまかして報道したが、かえって国民の怒りを買い、4月12日には人民日報本社に、「ある現場労働者民兵」の名で、編集長を「ゲッベルス」と揶揄し「驚愕すべきことだ!党の機関紙は堕落した!ファシズムのメガホンになり下がった」と書いた抗議文が送りつけられてきた。

2009年06月12日

生存目標の喪失と喪失した人の心の世界

難病にかかったり、恋人を失ったり、子供を失ったり、職を失うなどして生存目標を失うと、人は「前途が真っ暗な世界に閉ざされた」「世の中が真っ暗になった」「深い谷底につき落とされた」などといった感覚を味わうのであり[13]、ヤスパースやクーレンカンプが「足場」とか「立場」などと表現しているのは、決して抽象概念などではなく、人間の根源的な感覚に根ざした表現である[14]。 それまで生存目標としていたものが失われると、人はもはや何のために生きてゆくのか、何が大切なのか、判断の基準すら分からなくなる。つまり価値観が崩壊し、これは概念レベルにとどまらず、もっと根本的な生体験(感情や欲求や知覚)にも影響を及ぼす[15][16]。
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新しい生存目標 [編集]
新しい生存目標の発見は、自分自身の本質的なものの線に沿ったものではなくてはならない、と神谷は言う[17]。自分自身の本質に沿ったもので、これ以外に自分の生きる道はないのだ、とわかったら思い切ってそれを選びとるほかはない、この決断と選択と賭けの前にしり込みしたときには、いわゆる実存的欲求不満の種をまくことになり、後日に神経症や「にせの生き方」や自殺をひきおこす、と述べる[18]。

新しい生存目標は、かつてのものと比較して類似のものに変形したり、すっかり置き換えられたりする。人間への愛が生きがいという状態から、神への愛こそが生きがい、と変わる場合もある。神秘家などにこの例は多く、失恋を契機として修道院での人生を選ぶ人などもこの例にあたる[19]。生きがいの置き換えのことを、リボーは「情熱の置き換え」と呼んだ。例えばゴーギャンにおいては、株の仲買人で生きていたが、35歳の時その職を捨て、絵画に走り、現世的な幸福はすべて捨てさってしまった、という[20]。

結局、自分の内にさまざまの可能性を持っている人は、ひとつの生きがいを失っても、ほかの生存目標をみいだし、強く生きてゆけるのではないか、と言い、内在的傾向の複雑なひとほど生きがいの置き換え現象が起きやすいのだろう、とする[21]。また、ある事例を挙げて、全てのできごとを「天の摂理」として受け入れる素朴な宗教心をもっている人だと、新しい境遇に置かれればまたそこで新たな生きがいを見出すものだ、とも述べる[22]。

生きがいと宗教 [編集]
宗教というものは現世において満たされない欲求を埋め合わすもので、代償と自己防衛の役割を果たしているものに過ぎない、などと考えてしまう人が多くいるが、もし仮にそのようなものだとしたら、現実の苦悩の原因がとりのぞかれれば宗教は必要でなくなってしまう、ということになるが、実際はそうではない[23]。

ゴードン・オールポートの著書に明快に書かれているように、宗教とは、人格に統一的な原理を与えるものであり、宗教とは、自我の成長の各段階において存在全体を意味づける前進的意図を用意するものである。宗教が積極的な生きがいを人に与えうるとしたら、まさにこのような意味での宗教でなくてはならない、と神谷は述べる。このような宗教は、単なる思想や理想の意味をこえて、人間の心の世界を内部から作りかえ、価値基準を変革し、もののみかたのみならず、見えかたまで変え、世界に対する意味づけまで変える、とする[24]。また、多くの思想家や心理学者の言うように、宗教の果たしうるもっとも本質的な役割は、人格に新しい統合を与え、意味感、すなわち生きがい感を与えることであろう、とも述べる

2009年06月08日

行政学者の教育委員会制度廃止・縮小論

行政学者からも、教育委員会制度廃止解体・縮小論が挙がる。伊藤正次は、『岩波講座 自治体の構想 機構』において、今後の教育行政改革のあり方について、?教育委員会活性化モデル、さらに、一般行政の中における?総合行政モデル、?保護者の学校選択制を基盤とした市場・選択モデルの3つのガバナンス・モデルにタイプ化し、教育行政の一般総合行政への統合に言及した。

第一の教育委員会活性化モデルとは「従来の文部省統制の緩和を目指しつつも、制度の根幹には改革の手を加えず、むしろ、教育委員会の専門性を高め、自治体内部における教育委員会のプレゼンスを拡大することを指向」する。後述するように教育行政職・教職関係者を重用することで教育委員会の専門性を高めようとするもので、文部省のみならず教育学界や教職員関係者からも支持を得ている。

第二の一般総合行政モデルは、教育委員会が首長から相対的独立性を有している点を問題視し、「教育行政を直接公選の首長の下に置」き、「教育委員会を廃止して首長の補助機構としての部局に再編化する」ことである。文化・社会教育行政、学校教育行政の所管を自治体の自主性にゆだねることにより、自治体住民の代表である首長が「住民のニーズに沿って総合的な教育施策を展開する」ことを意図している。
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第三の市場・選択モデルは「教育行政機構自体の徹底的な分権化を指向する」。このモデルは「学校に組織としての自律性を与え、同時に、親・子どもに学校を選択する権利を付与することで、公教育の供給をめぐる競争市場を創出することを提唱する」。市場・選択モデルは、「文部省統制と画一的学校管理からの脱却を目指して公教育に市場原理を導入するとともに、教育委員会から各公立学校に大幅な権限委譲を行い、教育委員会の機能を縮小ないし停止させる構想」である。

伊藤はこうして3つのガバナンス・モデルを提示した上で、「教育委員会活性化モデルが、実際に教育委員会の活性化をもたらすかどうか」疑問を呈した。「教育委員兼任教育長が現状以上に主導権を握り、委員会審議がさらに形骸化する可能性があるなど、教育委員会の活性化をめざした改革が、教育委員会のさらなる形骸化を招く可能性がある」からとする。伊藤は、「都道府県・政令市から小規模町村まで一律に教育委員会が設置され、教育行政ネットワークが全国大に張り巡らされてきたこと」によって「文部科学省を頂点とする中央集権的な指導助言のネットワークが、首長、議会あるいは住民の意思から遊離していく危険性」を指摘する。地方教育行政法の廃止と地方自治法の改正による教育委員会の必置規制の廃止、教育委員会必置規制の廃止、自治体が自らの判断で教育ガバナンスの形態を選択できるよう教育ガバナンスの多様化を主張している。

2009年04月24日

農耕

農耕(のうこう)とは、ある共同体の食物供給の一端や全体、及び他の有用植物の需要を補うために、田畑に作物のもととなる種子、苗、球根などを植え、育て、継続的、及び循環的にその生産をあげていくための活動や実践。

農耕の起源については諸説あるが、今から約15000年ほど前、中国の長江流域で稲作を中心とした農耕が始められていたことが最新の発掘調査で確認されている。またレバント(シリア周辺、肥沃な三日月地帯の西半分)では、テル・アブ・フレイラ遺跡(11050BP, 紀元前9050年頃)で最古級の農耕の跡(ライムギ)が発見されている。それ以前は採集によって野生の穀物や豆類を集めており、たとえばムギ類はアナトリア高原の南、ハブール川流域で野生種が利用されていた。

人類はそれまでの約300万年もの長い間、採集、狩猟、漁労などによって生計を立ててきたとされるが、それらとともに新たに農耕が始められた理由として食料難が一つの説としてあげられている。農耕は大量の水が要り、ついでその管理も必要となってくるため、河川周辺など、定期的に水の供給が得られる場所が農地として選定されることが多い。

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農耕や土器の発明により、人類は計画的に食物を生産、そして貯蔵することが可能となった。食料の安定供給は多くの人口を養う事を可能にし、それまで家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大し、多くの人々が定住して社会生活を営む様になる。世界四大文明などの古代都市文明も農耕を基礎におき、大河川流域で大いに発展した。そして政治と経済、ついには国家の誕生へと至る事となる。

さらに作物の管理や分配のための計算、気候の変化と農作業の日程を知るための暦法(天文学)、農地管理のための測量などが必要となり、これらが数学の基礎となった。

現代の職業としての農耕については農業を参照。

栽培
野菜・草花・樹木などの植物を植え、育てること。
園芸
生垣や建物などにより、周囲を囲まれた場所で植物を育てること。杉林や露地での畑作などは園芸と呼ばない。
有用植物
人間の生活にとって身近に必要で、役立つ食用・薬用・観賞用・工業用などの植物。
農作(耕作)
収穫を目的として、田畑にて有用植物を作ること。
農耕生活
農耕を生活の一部に取り入れて、暮らすこと。動物の飼養(牧畜)を含む場合もある。

2009年04月07日

演歌(えんか)

演歌(えんか)とは、日本の大衆音楽のジャンルのひとつであり、日本人独特の感覚や情念にもとづく娯楽的な歌曲の分類であるとされている。歌手独自の歌唱法や歌詞の性向から、同じ音韻である「艶歌」や「怨歌」の字を当てることもある。

演歌が用いる音階の多くは日本古来の民謡等で歌われてきた五音音階(ペンタトニック・スケール)が用いられることが多い。すなわち、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外し、第5音と第6音をそれぞれ第4音と第5音にする五音音階を使用することから、4と7を抜くヨナ抜き音階と呼ばれる音階法である。この音階法は古賀正男、後の古賀政男による古賀メロディとして定着した、以降演歌独特の音階となる。古賀メロディーについては、初期、クラシックの正統派・東京芸大出身の藤山一郎(声楽家増永丈夫)の声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で一世を風靡したが、やがてそのメロディーは邦楽的技巧表現の傾向を強め、1960年代に美空ひばりを得ることによって演歌の巨匠としてその地位を確立した。小節を利かしながら、それぞれの個性で崩しながら演歌歌手たちが古賀メロディーを個性的に歌った。

歌唱法の特徴としては、「小節(こぶし)」と呼ばれる独特の歌唱法が多用される。又、必ずと言ってよいほど、「ビブラート」を深く、巧妙に入れる(例えば2小節以上伸ばす所では2小節目から入れる、等)。この2つは演歌には不可欠といって良いが、本来別のものにもかかわらず、混同される場合も多い。

演歌歌手(とくに女性)は、日本的なイメージを大切にするため、歌唱時に和服を着用することが多い。

歌詞の内容は“海・酒・涙・女・雨・北国・雪・別れ”がよく取り上げられ、これらのフレーズを中心に男女間の切ない愛や悲恋などを歌ったものが多い。美空ひばり「悲しい酒」、都はるみ「大阪しぐれ」、大川栄策「さざんかの宿」、吉幾三「雪國」など。

上記のような特徴を兼ね備えた、いかにも演歌らしい演歌に対して、「ド演歌」(ど演歌)といった呼称が使われることがある。

また、男女の情愛に特化されたジャンルで、演歌よりも都会的なムード歌謡というものがある。

とはいえ上記の特徴をもってしても、演歌とそれ以外のジャンル(歌謡曲など)を明確に分類することは難しい。たとえばジャズピアニストの山下洋輔は、“音楽理論的に両者を分類することができない”の意で「演歌もアイドル歌謡も同じにしか聞こえない」と述べていたといわれる。

男女間の悲しい情愛を歌ったもの以外のテーマとしては、

幸せ夫婦物…村田英雄「夫婦春秋」、三笠優子「夫婦舟」、川中美幸「二輪草」など。
母物…菊池章子・二葉百合子「岸壁の母」、金田たつえ「花街の母」など。
その他家族物…鳥羽一郎「兄弟船」、芦屋雁之助「娘よ」、大泉逸郎「孫」など。
人生物、心意気物…村田英雄「人生劇場」、「花と竜」、北島三郎「山」、「川」、中村美律子「河内おとこ節」など。
股旅物…ディック・ミネ「旅姿三人男」、橋幸夫「潮来笠」、氷川きよし「箱根八里の半次郎」など。
任侠物…北島三郎「兄弟仁義」、高倉健「唐獅子牡丹」など(股旅物に近いが、股旅物は軽快、任侠物は重厚な曲調が多い)。
歌謡浪曲物…三波春夫「俵星玄蕃」、「紀伊国屋文左衛門」、など。
劇場型ドラマチック物…山口瑠美「山内一豊と妻千代」、「至高の王将」、「白虎隊」など。
:望郷物…北島三郎「帰ろかな」、千昌夫「北国の春」、「望郷酒場」など。 以上のどれにも当てはまらない物として細川たかし「北酒場」。作詞家が見た“北の酒場通”の様子がポンと描かれただけで、演歌特有の情景が全く入っていないのが新鮮に受け取られレコード大賞を受賞した。

しばしば「演歌は日本人の心である」といったような言及がなされることがあるが、前述のヨナ抜き音階は本来の日本の伝統音楽にみられる音階ではないことに注意を要する。またこのジャンルの発展に決定的な役割を果たした古賀政男は、少年時代を過ごした朝鮮をはじめロマなど世界各地の民族音楽や西洋音楽からの影響も作品に盛り込んでいる。このように演歌を日本的な音楽の典型とする見方は必ずしも正しくない。

演歌は日本の大衆に受け容れられ、流行音楽の一つの潮流を作り出してきたが、一方でその独自の音楽表現に嫌悪を示す者も少なくないのもまた事実である。日本の歌謡界に大きな影響力のあった歌手の淡谷のり子は演歌嫌いを公言し、「演歌撲滅運動」なるものまで提唱したほどだった。作曲家のすぎやまこういちも「日本の音楽文化に暗黒時代を築いた」と自著に記している。

シンビジ 検索ゆに 日光街道 熱帯魚 パース サーチ秀月 サンバ しべつ ジギタリ ドロス 章姫 ひまわり 風の森 リミング フラメンコ オライタイ トロイ オスロ バルバ バハマ タイリン 透明人間 アルコ いとの キーワ ランチドポ ハイフ 未来の果実 テイステ 若菜摘 コリーナ マントル ぼうし チャレン いながき マナウス ブイシネマ ネイショ プロ うすき ブリュッセ リコソウ プレメイ ウォーム よりどころ 流星 メリー たくぼ ひない クロス


2009年03月23日

主要機器を8800系(パノラマDX)に譲るため

1984年と1987年に主要機器を8800系(パノラマDX)に譲るため、中間車8両が廃車され、このうち冷房装置を瀬戸線の6600系に転用している。1998年からは編成単位での廃車も始まり、2007年までにほぼ半数の56両が廃車になっている。以後、残存車両も新型車両(3代目3300系・3150系・2代目5000系)に置き換えられて2009年(平成21年)度までに全廃となる予定であり、中でも6両組成の運行は2008年6月までに5700系6両組成の代用である7007Fを除いて終了した。その7007Fも同年9月14日のさよなら運転を最後に運用を離脱し、また、4両編成の運行も同年12月26日をもって終了し、その後はイベント用で使用される予定である。それによって本系列の6両組成は消滅した。なお、廃車の順序は車齢順ではなく検査期限切れ順であり、特別整備が未施工である後期車の廃車が早い傾向にあった[15]。特に7001Fはかつて7041Fから引き継いだ7750形を2両挟んだSR6組成となっており、正面が電動方向幕、自動解結装置・電気連結器装備に変化しているものの4両が健在であった。2008年に入り、4両組成の7035編成の中間に7001Fの中間に組み込まれていた7750形2両を連結して6両組成とし、廃車回送が行われたため、再び4両組成に戻っている。廃車の進行によって2008年12月現在本系列は4両組成4本16両(7001F・7011F・7041F・7043F)のみとなっている。このうちトップナンバーの7001Fはすでに運用を離脱しているが、先頭車2両については舞木定期検査場へ静態保存し、中間車2両については解体する予定である[16]。同時に、最終増備車の7050形7100番代も先頭車化改造された7101 - 7104を除き廃車となった。さらに、残りの4両組成3本も12月26日をもって基本運用からは離脱したが、旅客営業運転終了までの当分の間はイベントなどで臨時列車として運用される予定である。なお、7041Fと7043F[17]は特別整備未施工だが、最後まで残り、終焉を迎える。

1963年、7000系の前面展望方式をベースに走行性能を大幅に改良して登場した。同系列は先頭車の展望部の床面のみ110mm低くなっているが、本系列では重心を下げるため車両全体を低床化したことによりフラット化した。運転台の屋根の高さは7000系と同一(4065mm)にされたため、外観上運転台部分が同系列より突出した感じとなっている。また、パンタグラフは高さを稼ぐため、高めの台座の上に設定されているのが同系列と異なる。1970年(昭和45年)をもって増備が終了し、製造両数は72両に留まったが、それでも当時の名鉄では同系列に次ぐ勢力であった。
ビーシ イズミル サイド トレハ シェブロ マイラー ホウオウ マドレーヌ マルチビ チャー ピナクル マックス エデン 恋のラジオ 桔梗ナビ 桜桃 セリ対策 テナント メンタル スペー パワー あぴお スタート ジョイ ナビゲ レバー支援 トルマン アポク オフライ フォートラン まっち レンゲ ブラウザー ビネガ ナイト テオプ ふぁんでる ヨットパ まぜり タイザー チケット サラシア 秋の夕暮れ ジンギ スタンス ロールフ えせん バック オイディ コスト

主電動機出力75kW、営業最高速度110km/hという数値こそ従来のSR車と同じであるが、定格回転数2400rpmの複巻電動機を使用して許容最高速度までの広範囲で弱め界磁制御を行う。当時の資料によれば、設計最高速度は180km/h[18]。また、95km/hの定速度運転[19]や1ユニットカットの4M2Tで走っても本線特急で定時運行ができたという逸話もある。なお、歯車比は4.93(74:15)で同系列よりもわずかに大きいが、高回転型モーターのため、全界磁定格速度は77km/hと約10km/hも高い。

登場時は廃車時と同様の6両であったが、すぐに性能面の余裕を利用して付随車サ7570形(後の8両化の際に電装されモ7570形となる)を含んだ7両編成で一時期運行されていた。また、登場当時は将来的に130km/h運転の構想もあった[20]が、重軌条化やPC枕木化などの路盤整備が追い付かず、営業運転速度の120km/hへの引き上げは1000系登場以降となり、110km/hを超える営業運転は実現しなかった(機器流用の1030系で実現)。なお、現在の120km/h運転では合成制輪子を装着し、ブレーキ性能を増強する改造が他車には施工されたが、7000系や本系列などは遂に未施工のままであった(7000系は合成制輪子化のみ施工済み)。

本系列は、元々鋳鉄制輪子の使用を前提としたシステムで増圧ブレーキを備え[21]、性能としては120km/h運転でも法令に定められた「最高速度から600m以内の制動距離」をクリアしていたが、加速に時間(距離)をとられてダイヤ上の時間短縮効果がわずかに留まる点、当時の名鉄は踏切事故が多かったため、速度向上に比例して事故のリスク(被害の規模)が大きくなる点などがネックとなり、120km/h運転の実現には至らなかった。

2009年03月07日

ヒューストン (重巡洋艦)

ヒューストン (USS Houston, CL/CA-30) は、アメリカ海軍の重巡洋艦。ノーザンプトン級重巡洋艦の5番艦。艦名はテキサス州ヒューストンに因み、その名を持つ艦としては2隻目。

ヒューストンは1928年5月1日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工する。1929年9月7日にエリザベス・ホルコム(当時のヒューストン市長オスカー・ホルコムの娘)によって進水し、1930年6月17日に CL-30 (軽巡洋艦)として艦長J・B・ゲイ大佐の指揮下就役する。ヒューストンは1931年7月1日に CA-30 (重巡洋艦)へ艦種変更された。

大西洋での公試後、ヒューストンは1930年10月に帰還した。その後艦名の由来となったテキサス州ヒューストンを訪問し、ハンプトン・ローズで艦隊と合流する。1931年1月10日にニューヨークに向けて出航し、パナマ運河、ハワイを経由し2月22日にマニラに到着した。ヒューストンはアジア艦隊の旗艦となり、翌年に向けて極東での訓練活動に従事した。

太平洋で
1931年に日中戦争が生じると、ヒューストンは1月31日にアメリカ人の生命および財産を保護するため上海に向かう。海兵隊および海軍陸戦隊を上陸させ事態の安定化を支援すると共に、1933年11月17日にオーガスタ (USS Augusta, CA-31) と交代するまで同水域に留まった。この間3月にフィリピン、5月に日本へ親善訪問を行っている。その後ヒューストンは偵察艦隊に合流するためサンフランシスコに向かい、続いて太平洋で艦隊演習および訓練に従事した。

第二次世界大戦が始まるまでの間、ヒューストンはしばしば特別の巡航を行った。1934年7月1日にルーズベルト大統領がメリーランド州アナポリスで乗艦し、カリブ海、オレゴン州ポートランドを経由してハワイまで12,000海里の航海を行った。その巡航にはヘンリー・L・ルーズベルト海軍次官補も乗艦した。ヒューストンは1935年5月15日に帰還した。

アラスカ海域での短い巡航の後に、ヒューストンはシアトルに帰還し1935年10月3日に再び大統領を乗艦させる。大統領の一行は休暇のためセロス島、マグダレナ湾、ココス島、サウスカロライナ州チャールストンを巡航した。ヒューストンはまた1937年5月28日にサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ落成記念式典に参加した。1938年7月14日には観閲式に参加するルーズベルト大統領を乗せサンフランシスコを訪れている。

ヒューストンは1938年9月19日に艦隊旗艦となり、クロード・C・ブロック少将が座乗した。旗艦任務は12月28日まで継続し、その後偵察艦隊に復帰した。通常の訓練演習任務に就いたヒューストンは1939年1月4日に演習「Fleet Problem XX」に参加しサンフランシスコからノーフォーク、キーウェストまで巡航を行う。キーウェストでは大統領と海軍作戦部長のウィリアム・リーヒ提督が乗艦し、演習を視察した。4月7日にテキサス州ヒューストンに到着、続いてシアトルに向かい5月30日に到着した。

オーバーホールと整調後、ヒューストンはハワイ分遣隊の旗艦に指定され、1939年12月7日に真珠湾に到着した。1940年2月17日にメア・アイランドに帰還した。再びハワイに戻り、11月3日にフィリピンに向けて出航したが、世界情勢は悪化の途をたどっていた。ヒューストンは11月19日にマニラに到着、アジア艦隊司令官トーマス・C・ハート提督の旗艦となる。

第二次世界大戦
戦争への危機が高まり、ハート提督は艦隊に戦闘準備を宣言した。真珠湾攻撃が行われた1941年12月7日の夜にヒューストンは艦隊と共にパナイ島からオーストラリアのダーウィンに向けて出航し、バリクパパンとスラバヤ経由で1941年12月28日に到着した。偵察任務後ヒューストンはスラバヤで米英蘭豪 (ABDA) 艦隊に合流する。

ヒューストンは2月4日のジャワ沖海戦にオランダ海軍のカレル・ドールマン少将指揮下の艦隊の一部として参加した。艦隊はバリクパパンに向かう日本軍の上陸船団攻撃に出撃したものであったが、日本軍機部隊の攻撃を受けヒューストンは敵機4機を撃墜したものの、250kg爆弾の直撃を受け三番砲塔が稼働不能となった。また、軽巡洋艦マーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) は大きく損傷し後退を余儀なくされた。ドールマン少将は攻撃をあきらめざるを得なかった。

オーストラリアへ帰還後、ヒューストンは2月15日に小船団と共にティモール守備隊援護のため出航した。部隊は出航までに何度も日本軍部隊による空襲を受け、翌朝に日本軍は本格的な攻撃を始めた。この防御戦においてヒューストンは船団への被害無く敵の攻撃を撃退するのに成功した。

スラバヤ沖海戦
日本軍はジャワ島占領を目的として陸軍の上陸船団と、重巡洋艦を中心とした高木武雄少将指揮する第5戦隊を派遣する。その報を受けたドールマン少将は上陸を阻止するため、ヒューストン、パース (HMAS Perth, D29)、デ・ロイテル (HNLMS De Ruyter)、エクセター (HMS Exeter, 68)、ジャワ (HNLMS Java) および10隻の駆逐艦から成る艦隊で1942年2月26日に出撃する。艦隊は4隻の巡洋艦および13隻の駆逐艦から成る日本艦隊と遭遇した。

翌27日のスラバヤ沖海戦で米英蘭豪艦隊は奮戦したものの、航空援護の不足および通信障害のため苦戦に陥った。両艦隊は夕方に遭遇し、17:45に神通が砲撃を開始した。両軍は砲撃戦を開始し、日本軍は18:38、エクセターに命中弾を与える。エレクトラ (HMS Electra, H27) はエクセターを援護する間に攻撃を受け大破する。18:45にはコーテニアー (HNLMS Kortenaer) に魚雷が命中し沈没、米英蘭豪艦隊は戦場を離脱した。

エレクトラは19:54に沈没した。両軍は夜戦に入り、22:55にジュピター (HMS Jupiter, F85) が触雷し沈没した。その後エンカウンター (HMS Encounter, H10) はコーテニアーの生存者救助に当たり、エクセターと駆逐艦4隻はスラバヤへ退避した。護衛の駆逐艦が無くなったドールマン少将の艦隊は、日本軍のジャワ侵攻阻止のため最後の攻撃で北へ向かう。

翌28日の00:33に艦隊は再び日本艦隊と遭遇した。両艦隊は並列して航行、砲撃戦を開始し、日本艦隊は30分後に魚雷攻撃を開始した。12本の魚雷が放射状に発射され、デ・ロイテルとジャワに命中、両艦は爆発、沈没した。ドールマン少将はデ・ロイテルと運命を共にした。

バタビア沖海戦
ドールマン少将は戦死する直前にパースとヒューストンに後退を命じた。両艦は後退したが、翌日バンタム湾に向かい、日本軍輸送船団への攻撃を試みた。湾に接近すると、日本軍第5水雷戦隊、第7戦隊との戦闘が始まる。両艦は多くの魚雷攻撃を受ける。

両艦は輸送艦1隻を撃沈し、3隻を引き返させた。日本軍駆逐艦隊はスンダ海峡を封鎖し、2隻の巡洋艦は湾に閉じこめられることとなった。ヒューストンとパースは最上、三隈との砲雷撃戦となる。パースは23:36に攻撃を受け、砲撃と雷撃を受けた後約1時間で沈没した。その後ヒューストンは雷撃により航行不能となるまで単独で戦うこととなる。
ユーティ つくだ ジャー まんご アンプ マガジン マッコリ だいせん センダン チコリー ノアアク フェイント ホーム フロッタ マリ幸運 ナンヨウ ジブル おれが オーシャ ディフェ メッシュ ナツユ ふくべそ しもごう ギャルド リング リビア キウイフル ローティー ニュース ニアピン モーター ジュアル マイナー ガント ビーム ツーリズム レクラニ ハイフ センサ メチエ バイパス クール おたる ビリー ジャンプ トロール モホス プチトマト はかま

この戦闘でヒューストンは3隻の駆逐艦に命中弾を与えたものの、3発の魚雷直撃を受ける。アルバート・ルックス艦長は00:30の直撃弾により戦死し、日本軍の駆逐艦がヒューストンに対して機銃射撃を行った。数分後にヒューストンは横転、沈没した。1,061名の乗組員の内368名が生き残った。

その後
ヒューストンの運命はほぼ9ヶ月間不明のままであった。その真相が明らかになったのはヒューストンの生存者が捕虜収容所から解放された後のことであった。

ルックス艦長はその英雄的行動により名誉勲章を受章した。ヒューストンの従軍牧師であったジョージ・S・レンツは海軍殊勲十字章を受章した。彼は第二次世界大戦で海軍殊勲十字章を受章した唯一の従軍牧師であった。

ヒューストンの乗組員はオーストラリア、メルボルンの戦没者慰霊塔でパース乗組員と並んで祀られている。

ヒューストンは第二次世界大戦の戦功で2個の従軍星章および殊勲部隊章を受章した。

映画『戦場にかける橋』のシアーズ中佐はヒューストンに乗艦していたという設定であった。

2009年02月19日

.S.S.エンタープライズ (U.S.S. Enterprise)

U.S.S.エンタープライズ (U.S.S. Enterprise) は、『スタートレック』シリーズに登場する航宙艦。
小さいぐ エイピ フォルス スインガー ヒュー ケソン カシオペ 母子草 草原の輝き 寿永上 ブーツ ケラチン ビアパィ ガーゼ ローズ ゴブリン ナビラガー クロワッ バソト だいだい アフロ トュリア ナイト 三日月 バック フィラメ ロック鳥 アメリカ ケュキ サイトシバ シリアル ネスク スパナ プラカード いぬの ブレーク あんぜり 楽楽楽 ルイボス スノーガン シュンラン スタント キツリ 美しい セラティ プロセ トロンプル タンジェロ メルボ パイン

『宇宙大作戦』の主役船として登場し、その多大な功績から宇宙艦隊の象徴的な艦と位置づけられ、以後の時代でもその名を受け継ぐという形で、同名の宇宙船が多数登場している。無論、エンタープライズ以外にも同名で別世代の艦は存在するが、登録番号「NCC-1701」まで受け継いでいるのはエンタープライズのみである(『新スタートレック』に登場したU.S.S.ヤマトもNCC-1305-Eという登録番号の受け継ぎを示唆する番号がつけられていたが、後にギャラクシー級に設定変更になった際にNCC-71807に変更されている。[1])。なお、USSとは「惑星連邦宇宙船(United Federation of Planets Star Ship)」の略である(アメリカのSFであるため「United States Ship」(合衆国海軍船)をそのまま持ってきたものだ、また「United Space Ship」の略であるとする意見もある)。

円盤状の「第1船体」(円盤部)と紡錘状の「第2船体」(機関部)を「ドーサルネック」で繋ぎ、第2船体後部から伸びた2本の「パイロン」の先端にそれぞれ「ワープ・ナセル」がある船型は多少のアレンジを加えつつも継承され、惑星連邦宇宙船の基本デザインとなっている。なおメイン・ブリッジは第1船体の中央最上部にある。

クラス:不明
活動期間:21世紀後半
登場作品:『スタートレック (映画)』
改装後のNCC-1701のレクリエーションデッキに歴代「エンタープライズ」を描いたパネルに登場した。後述のスペースシャトル・オービタとNCC-1701の間に展示されている。NX-01よりは古い時代の船のようである。

エンタープライズ NX-01
クラス:NX級
活動期間:2151年?2161年
船長:ジョナサン・アーチャー
登場作品:『スタートレック:エンタープライズ』
要目

全長:225m
乗員:83名
最高速度:ワープ5(旧ファクター)
円盤状の主船体から後方に左右2本の細い棒状の船体が伸び、その後端から左右の船体を繋ぐバーとワープ・ナセルを支えるパイロンが出ている。

『スタートレック:エンタープライズ』の主役艦。惑星連邦設立前(22世紀)の船であるため、本艦に「U.S.S.」はつかない。所属は、地球連合宇宙艦隊。地球船で初めてワープ5エンジンを搭載(ジョナサン・アーチャーの父ヘンリーが設計に携わった)。なお、『宇宙大作戦』以前の時代設定のため、それにあわせ原語の「Captain」は、「艦長」ではなく「船長」と訳されている。2151年就航。 同型船に「コロンビア NX-02」がある。

ワープ速度に関しては、第23話「追放された者への祈り」ではじめてワープ・ファクター5.0を記録、88話「バベル1号星」で5.06とワープ5の壁を越えた。そして、91話「クリンゴンの苦境」と92話「優生クリンゴン」ではワープ5.2を記録している。91、92話を除きワープ5を超えたのは敵に追われ振り切るために使われた(23話ではマザール人、88話ではロミュラン人)。91、92話ではクリンゴン人により、インジェクター故障、ワープマトリックス汚染の為、ハイワープを維持しなければならずワープ5以上を出した。

U.S.S.エンタープライズ NCC-1701
クラス:コンスティテューション級
活動期間:2245年?2285年
船長:ロバート・エイプリル、クリストファー・パイク、ジェイムズ・T・カーク、ウィラード・デッカー、スポック
臨時指揮官:マット・デッカー准将、ストッカー准将など
登場作品:『宇宙大作戦』、『スタートレック (映画)』、『スタートレックII カーンの逆襲』、『スタートレックIII ミスター・スポックを探せ!』
要目(改装前/改装後)

全長:288.6m/304.8m
全幅:127.1m/141.7m
全高:72.6m/71.3m
デッキ数:21/23
乗員:430名/500名
最高速度:ワープ8.0/ワープ12(旧ファクター)
改装(refit)による外見の違い

ワープナセルが円柱状から直方体に近い形となり、オレンジ色の発光が青の発光へ変わった
第2船体の円筒部分の直径が大きくなり、太くなったように見える
パイロンに後退角が付くようなった
デフレクターがパラボラから、青い発光体となった
全体的に「丸い」外見から「角張った」外見となった
認識番号、艦名を記した字体が変更された
なお、バンダイから発売されていたプラモデルは改装型である。

『宇宙大作戦』の主役艦。2245年就役。カーク船長指揮の下、5年間に及ぶ深宇宙探査任務「5 years mission」を成し遂げる。映画版第1作では大々的な改装作業を経て、急遽ヴィジャーの地球接近を迎撃する(2271年)。その後、『カーンの逆襲』では連邦士官学校の練習艦として就役していた(2285年)。『スタートレックIII ミスター・スポックを探せ!』で、クリンゴンのバード・オブ・プレイとの戦闘で著しく損傷したため、投降すると見せかけ、クリンゴン人クルーを艦内におびき寄せた上で自爆する。 なお、原語の「Captain」はTV版は「船長」、映画版は「艦長」と訳されている。

U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-A
クラス:コンスティテューション級(改装型)
活動期間:2285年?2293年
艦長:ジェイムズ・T・カーク、スポック
登場作品:『スタートレックIV 故郷への長い道』、『スタートレックV 新たなる未知へ』、『スタートレックVI 未知の世界』
要目

全長:304.8m
全幅:141.7m
全高:71.3m
デッキ数:23
乗員:500名
最高速度:ワープ12(旧ファクター)
自爆したNCC-1701を受け継ぐ形で、建造中であったU.S.S.ヨークタウンを、提督から大佐に降格となったジェームズ・カークの乗艦として急遽改名した艦。 2285年就役。

U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-B
クラス:エクセルシオール級(改装型)
活動期間:2293年?不明
艦長:ジョン・ハリマン
登場作品:『ジェネレーションズ』
要目

全長:466.6m
全幅:185.9m
全高:77.7m
デッキ数:32
乗員:570名
最高速度:ワープ14(旧ファクター)
エクセルシオール級になったため、初代及びA型に比べてドーサルネックが太く、パイロンは真横に伸びてから上に曲がっている。

『ジェネレーションズ』に登場。装備が不十分なままでの処女航海で謎のエネルギーリボンに遭遇。付近に居たエル・オーリアンの難民を乗せた輸送船を救助するが、リボンから逃れる際、ゲストで乗船していたジェイムズ・T・カークが行方不明になる。なお、ナビゲイターは、NCC-1701で主任ナビゲイターを務めたヒカル・スールーの娘、デモラ・スールーが任った。その後、この艦は142もの星系の探索と星図の作成、さらに17の文明とのファーストコンタクトを成し遂げたとされている[2]。2293年就航。

U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-C
クラス:アンバサダー級(初期型)
活動期間:2332年?2344年
艦長:レイチェル・ギャレット
臨時指揮官:リチャード・カスティーヨ大尉
登場作品:『新スタートレック』
要目

全長:525.8m
全幅:321.9m
全高:133.2m
デッキ数:34
乗員:700名
最高速度:ワープ14(旧ファクター)
2332年、地球軌道上のマッキンレー造船所で就航。 ロミュラン人とクリンゴン人の紛争で、ナレンドラ3号星のクリンゴン基地がロミュランの攻撃を受けた際に、単艦でクリンゴンの援助に向かった。しかし複数のロミュラン艦に撃沈される。名誉を重んじるクリンゴン人は同艦の犠牲により、惑星連邦を「名誉ある者」、防衛手段を持たない基地を襲撃したロミュラン星間帝国を「恥ずべき者」とした。これは、クリンゴン帝国と惑星連邦の友好関係を決定的とし、クリンゴンとロミュランの決裂も決定的とした。 歴代U.S.S.エンタープライズの中では、唯一映画に登場していない。

U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-D
クラス:ギャラクシー級
活動期間:2364年?2371年
艦長:ジャン=リュック・ピカード
臨時指揮官:ウィリアム・ライカー中佐、エドワード・ジェリコなど
登場作品:『新スタートレック』、『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』、『ジェネレーションズ』
要目

全長:641m
全幅:467.1m
全高:137.5m
デッキ数:42
乗員:760名(乗員家族など一般人含まず)
最高速度:ワープ9.8
第1船体はやや横に長い楕円で、ドーサルネックとの接続部はこれまでの艦より後ろに寄っている。第2船体も偏平でリフティングボディのようになっており、パイロンは滑らかに上へカーブし、先端部は前進翼のようになっている。ドーサルネック上部にバトルブリッジがあり、第1船体を分離して残った部分をここから指揮することができる。

『新スタートレック』の主役艦。 2363年、火星のユートピア・プラニシア宇宙艦隊造船所で完成。 U.S.S.ギャラクシー、U.S.S.ヤマトに次ぐギャラクシー級の3番艦として就航。 ヴェリディアン3号星の衛星軌道上で、同艦のウォーフ少佐の政敵であるデュラス家のルーサ (Lursa) とベトール (B'Etor) が指揮するD12型のクリンゴン・バード・オブ・プレイと交戦。 通常ならエンタープライズの圧勝のはずだったが、直前にソラン博士に改造されたバイザーを装着したラフォージが帰還、博士により改造されたバイザーから艦内の映像が流出して、ディフレクター・シールドの暗号周波数を解読されてしまう。 周波数を同期させるよう調整された敵の兵器に対し防御シールドは役に立たず苦戦を強いられるも、ウォーフ少佐の敵の弱点を突いた攻撃により辛くもデュラス姉妹を退けた。 しかし貫通弾により受けたワープコア冷却システムへの損傷が致命傷となり、ワープコアの崩壊により第2船体は爆発。直前に緊急分離した第1船体はワープコア爆発の衝撃波により軌道を乱され、操舵コントローラーも故障したままヴェリディアン3号星の大気圏に突入して不時着し[3]、大破喪失したが、人的被害は最小限に留まった模様(『スタートレック ジェネレーションズ』)。

連邦宇宙船としての歴代エンタープライズ号の中では最も長く映像に登場した同艦であるが、活動期間が不明のB型、2379年(『ネメシス/S.T.X』)の時点で現行のE型を除くと、意外にも活動期間が最も短いエンタープライズ号である。

U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-D改
(フューチャー・エンタープライズとも。「改」はあくまで日本語での便宜上の表記)

クラス:ギャラクシー級(ドレッドノート型)
艦長:ウィリアム・ライカー提督
登場作品:『新スタートレック』
『新スタートレック』最終回に登場。Qが見せた「可能性の未来」でのエンタープライズD。提督に昇進したウィリアム・T・ライカーが、廃棄されるところを私物化したもの。ワープ・ナセルが第2船体中央に1機増設され3基となった他、第1船体上部にフェイザー砲2門、第1船体下部にクリンゴンの新型戦艦ネグヴァ級を一撃で爆砕する程の威力を持ったスーパー・フェイザーキャノン1門が増設されるなど、戦闘向きの大改修を施されているのが特徴。遮蔽装置も搭載されている。物語上では我々から見たエンタープライズDはヴェリディアン星系で大破し、船名をソヴェリン級のエンタープライズEに継承しているので、あくまでパラレルワールドのみの存在となる。

U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-E
クラス:ソヴェリン級
活動期間:2372年?
艦長:ジャン=リュック・ピカード
登場作品:『スタートレック ファーストコンタクト』、『スタートレック 叛乱』、『ネメシス/S.T.X』

U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-J
クラス:不明
活動期間:26世紀
登場作品:『スタートレック:エンタープライズ』
異次元宇宙からの侵略者である球体創造者との戦闘(プロシオン5の戦い)に参加。 なお、U.S.S.エンタープライズJが存在することから、この時間軸上では“E”から“J”の間にU.S.S.エンタープライズ“F”、“G”、“H”、“I”があったものと思われる。

備考
『宇宙大作戦』とそれ以降の作品とではワープ速度の表示方法が異なる。前者はワープ係数の3乗(例:ワープ10=光速の1000倍)なのに対し、後者はワープ9までは10/3乗で計算しワープ10を無限速、つまり到達不能な速度と定義している為、数字が同じでも後者の方が速く、数字が大きくなるほどその差は急速に増大していく。

HMSエンタープライズ
史上初めて「エンタープライズ」の名をつけられた18世紀初頭のイギリス海軍の軍艦(帆船)。スペルはENTERPRIZE。なお、『ジェネレーションズ』で、ウォーフ大尉の少佐昇進を祝うホロデッキでのセレモニーに登場した艦は19世紀に造られたもの(つまり、2代目)をモデルにしており、この艦とは別物である。

U.S.S.エンタープライズ CVN-65
世界初の原子力航空母艦。『スタートレックIV 故郷への長い道』に登場。バード・オブ・プレイの推進エネルギーを得るため、チェコフとウフーラが潜入した。

NASAエンタープライズ OV-101
スペースシャトル・オービタの初号機。惑星連邦設立前(20世紀)の船であるため、本船に「USS」はつかない。トレッキー(熱烈な『スタートレック』ファン)の署名運動によって、スペースシャトルの初号機はエンタープライズと命名された。しかし、初号機だったため、大気圏内のテスト飛行にのみ使われ、結局宇宙空間には旅立っていない。滑空試験のためシャトル輸送機(大型航空機の上面に乗せられている)から空中分離する映像は有名である。

いずれのエンタープライズも映画版第1作でレクリエーションデッキにある歴代「エンタープライズ」を描いたパネルに登場したのをはじめ、『スタートレック:エンタープライズ』のオープニング映像にもそのイメージが登場する。

パロディ
アニメ『機動戦士ガンダム』に登場するジオン公国軍の宇宙巡洋艦ムサイは、エンタープライズをさかさまにしたものをモデルにしている。
鳥山明の『Dr.スランプ』に登場する「スコップくん」の自宅もエンタープライズを逆さにしたもの。ワープエンジン・ナセルが煙突になっていた。
ビデオゲーム『ギャラガ』のチャレンジングステージの最終ステージに登場する敵キャラ「エンタープライズ」はそのまま。

2009年02月03日

享徳の乱

享徳の乱(きょうとくのらん、1455年1月15日(享徳3年12月27日) - 1483年1月6日(文明14年11月27日))は、室町時代の8代将軍足利義政のときに起こった関東地方における内乱。鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した事に端を発し、幕府方、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(古河公方)方が争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因となった。
ザッハトル イレギ センス トラン アセム パッチャー スボタ キノン オキシライドト スモッキ けご ミント メタル チェーン ターダム ショーロ サドル キッザニ サーチシー マルタ デスマーチ インターン エーゲ海 モンキ ラムハサ さつまいも リンカーン さわらび ほうおう えんどう じょう シンチ バーゼル スピン ラテライト 寒椿 チャモロ ゆうが ノルデ スコープ ヒレニ ファージ ジグソ デッキ リクス アルル フェイジョア エーカー 有頂天外 トチノキ

鎌倉府再興問題
観応の擾乱を受けて足利尊氏が設置した鎌倉府は、尊氏の子である基氏の子孫が世襲した鎌倉公方(元はこちらを関東管領と言った)を筆頭に上杉氏が代々務めた関東管領(元は執事と言った)が補佐する体制であったが、次第に鎌倉公方は幕府と対立し、また関東管領とも対立していた(上杉禅秀の乱など)。これを打開するため、第6代将軍足利義教は前関東管領上杉憲実を討伐しようと軍を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を逆に憲実と共に攻め滅ぼした(永享の乱)。

その後、義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝などが持氏の遺児の春王丸、安王丸を奉じて挙兵する結城合戦が起こるが、これも鎮圧され、関東は幕府の強い影響の元、上杉氏の専制統治がなされた。

しかし、嘉吉の乱により将軍義教が赤松満祐に殺害されると、幕府は 関東地方の安定を図るため、上杉氏の専制に対抗して鎌倉府の再興を願い出ていた越後守護上杉房定や関東地方の武士団の要求に応え、持氏の子永寿丸(足利成氏)を立てることを許し、ここに鎌倉府は再興された。

足利成氏と上杉憲忠の対立
再興後の鎌倉府では、持氏が滅ぼされる原因となった憲実の息子である上杉憲忠が父の反対を押し切り関東管領に就任し、成氏を補佐し始めたが、成氏は父持氏派であった結城氏、里見氏、小田氏等を重用し、上杉氏を遠ざけ始めた。当然、憲忠は彼ら持氏派(反上杉派)に反発した。

関東管領を務めた山内上杉家の家宰である長尾景仲、扇谷上杉家の家宰太田資清(太田道灌の父)らは、結城氏等の進出を阻止するため、1450年(宝徳2年)関東公方成氏を攻めた(江の島合戦)。この合戦は間もなく和議が成立したが、これにより関東公方と上杉氏との対立は容易に解消し得ない状態となった。鎌倉を辞していた憲忠は間もなく許され鎌倉に戻ったが、成氏により景仲方の武士の所領が没収されたことを契機に、成氏と景仲ら憲忠家臣団との対立は所領問題に発展した。

前期(1455-1458)
1455年1月15日(享徳3年12月27日)、景仲が鎌倉を不在としている留守の隙を狙った成氏は、憲忠を屋敷に招くとこれを謀殺。里見氏、武田氏等の成氏側近が山内上杉邸を襲撃した。憲忠の後を継いだ弟房顕は上野国平井城に拠り、「享徳の乱」が勃発した。

顕房、景仲らは直ちに兵を集めたものの、武蔵国分倍河原の戦いで成氏軍の前に大敗を喫して武蔵を追われ常陸国小栗に逃走したが、事前に憲忠謀殺を幕府へ報じ、成氏征討を要請していた。成氏討伐を決定した幕府は駿河国守護今川範忠に出陣を命じたが間に合わず、小栗城は成氏により落とされた。成氏は宇都宮氏を降すなど各地を転戦していたが、留守にしていた本拠鎌倉を今川範忠により占拠され、下総国古河に入った。成氏は以後古河城を本拠地とし古河公方と呼ばれた。

この戦乱は各地に波紋を広げた。この年(康正元年)、千葉氏では成氏に通じた馬加康胤が挙兵して同氏宗家を倒して家督を奪っている。翌1456年(康正2年)、顕房は武蔵国に入り成氏と交戦を続けた。

一連の戦いの結果、関東地方は当時江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉顕房)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になる。

中期(1458-1476)
1458年(長禄2年)、将軍義政は成氏への対抗策として、前年に還俗させた弟の政知を正式な鎌倉公方として関東に送った。政知には山内上杉家の他、渋川義鏡などが配下として付けられていたが、実権は全て幕府に握られており、関東地方在住の武士たちの支持・協力も得る事ができなかった。そのため、鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆国の堀越に入り、堀越公方と称した。

一方顕房は1459年(長禄3年)、太田庄の戦いにおいて大敗を喫した。以後、両陣営は付近の五十子(いらこ)を挟んで長期にわたって睨み合った(五十子の戦い)。顕房は1466年(寛正7年)に五十子で病に倒れて陣没。これに対して幕府は上杉房定の子を顕房の養子として後を継がせるように命じた。これを受けて房定の次男・上杉顕定が後継者となった。

1471年(文明3年)、成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻し、政知は三島で敗退した。顕定ら上杉方は成氏方の主力が伊豆に出陣している留守を狙い、古河に出陣。小山持政を離反させて下野国内の諸城を降した。だが、翌年には成氏も古河城を奪還して勢力の巻き返しに出た。

この間、成氏は幕府主導の改元に従わず、享徳の年号を使い続けた。

後期(1476-1483)
1476年(文明8年)上杉家有力家臣の長尾景春が関東管領家の執事になれなかった不満のため、鉢形城にて挙兵し1477年2月(文明9年1月)には五十子を陥落させた(長尾景春の乱)。危機感を抱いた顕定は1478年(文明10年)、成氏と和睦が成立した(この年を最後に成氏側の文書から「享徳」の元号が消える事になる)。翌1479年(文明11年)、成氏は幕府とも和議を申し出、1483年1月(文明14年11月)に至り、ようやく幕府と成氏との和睦が成立した(「都鄙合体(とひがったい)」)。これによって成氏が引き続き関東を統治する一方で、伊豆国の支配権については政知に譲ることになった。

成氏による反幕府的行動は停止されたが、配下の諸将を多く持つ古河の成氏と、幕府公認の公方として権限を持ちながら関東に入れない堀越の政知の2人の公方が並存する状態が続くこととなった。

2009年01月20日

8世紀末になって都が平安京に遷されたが

8世紀末になって都が平安京に遷されたが、京都は三方が山に囲まれた濃い緑に囲まれる山紫水明の、清流にめぐまれた景勝の地である。いたるところに森や池や泉があった。三方の山々は古生層に属してゆるやかな起伏をもち、また盆地縁辺にはいくつかの独立した小山も点在していた。この古生層の山河からは、美しい庭石と白砂がとれたがこうした自然環境は樹木・石・水・砂など良質の作庭材料を供給し、地形からも材料からも、庭園をつくるのに好適の地であったといえる。
京には東西2町南北4町に及ぶとされる神泉苑や冷泉院、朱雀院、淳和院などの庭園があったとされているが、わずかにその一部を残す神泉苑に当時の豊富な湧水を貯えて巧みに利用した往時の姿をしのぶことができる。また郊外の景勝地を選び離宮や別荘を営んで庭園をつくることはこの頃から始まっているとされ、京都市右京区嵯峨にある大覚寺の大沢池は、嵯峨天皇が離宮の苑池として作ったものの遺構とされ、平安時代初期庭園の貴重な遺構である。その庭園の主要部である大沢の池は北岸に近い大小二つの中島と池中の立石、また北側の名古曽の滝跡とともに平安時代初期のおおらかな面影を今日にしのばせている。
平安時代の貴族の邸宅の形式は寝殿造と呼ばれ、その建築様式は普遍化し、それに伴って庭園の様式も寝殿造り庭園としてその形式を整えていった。寝殿の正面(南側)には遣水から中島のある池に水を流し込む庭園が設けられた。また右大臣源融の邸宅河原院の庭園は奥州塩釜の海景や松島の浮島、六条院は丹後の天の橋立の模写などがそれであり、これらは前時代からの自然風景の縮景手法の延長線上に行われたことが伺える。奈良時代から受け継がれてきた海景の縮景庭園はこの時代にも広く用いられているが、莫然とした海景の模写から特定の海景の模写へと変化していった。またこれらを主題に歌合せの催しが行われていることから日本庭園が文学的・情緒的であることも一つの特色といえるが、このころは「古めかしきもの」から「今めかしきもの」への変換期で、生活形式が変わりつつあったといわれる。中国から伝来した中国絵画がようやく日本化され、いわゆる「大和絵」の成立したのもこの時期であり、漢詩文に対し仮名書きの文学作品が書かれるようになるのもこの時代である。
また平安時代中期から浄土教の影響で西方浄土の極楽に見たてた浄土庭園が流行した。参拝者は南門をくぐって大池に架かった反り橋を渡り、中島を経て御堂に達するようになっていた。なお池や庭園がやや整形的になっているのが多いのは、浄土曼荼羅の構図がもとになっているためと推測されている。
ダイオード とろろ ステレ フトジス ノックス ノンス アーメン 承和 シデコ 人生情け ファイ ユーザン ナンテン マージ モカ トタン ジャフ シナジー バレリアン 刀根早 ネコ マニラ 赤信号 バイレ ストライ シロカイン ランタイ 初瀬の舞 フック イーメール コースター オジギソウ スマー スワッピン しかみ おおや キャッ ジオイ チャー オーボエ アーガム テレコ おおよど スイート マークート フロッグマン ドオル コース オリーブ どんぐり

例:大乗院庭園跡(奈良)、平等院(京都府宇治市)、浄瑠璃寺庭園、毛越寺(岩手県平泉町)など。
この時代の庭がとくに詳しくわかっているのは、当時の公家橘俊綱が書いたといわれる『作庭記』が残されているからである。平安時代後期に庭園の地割、石組、滝・遣水、植裁等の技法について著された秘伝書『作庭記』には自然の風景からモチーフを得るという主張が貫かれている。また自然と作者との対応のしかたが<乞はんに従う>という言葉で表現されている。これは自然の地形や岩石が、人間に要求してくるというもので、自然が人間に要求するという感じ方に、日本人独特の自然観がみられる。自然が人間と対立し克服すべき対象となるのではなく、自然の中にとけこみ、自然に従いながら作庭しようとする意味である。また<池なき所の遣水は、事外にひろくながして>とあるように見せ方を種々述べているが、その見せ方の記述に、後に展開される日本作庭手法の先駆的表現が示されている。四季折々を歌に詠む情緒的な文学の世界と建物近くに配される滝・遣水・野筋・前栽については日本人の好む作庭感が述べられている。『作庭記』が公家自身の手で書かれたように、当時の公家は一流の作庭家でもあった。この著者の父は、平等院をつくった藤原頼通である。藤原頼通も庭園をつくろうとしたとき、気に入った専門家がなく、みずから作庭したといわれる。